餓鬼
しんしんと雨が降り注ぐ。
空は分厚い灰色の雲に覆われて、雷の白光と豪音が雨音を掻き消す。
散歩にはむかない悪天候だというのに、一人の女が、真っ赤な番傘をさしてゆらゆらと歩いていた。
絹の様な黒く長い髪は、腰まで伸びていて、肌は雪の様に白く、瞳は黒耀石の如く、妖しく輝いている。
赤と黒の着物には黒椿の花弁が咲き誇り、胸元が大きく肌蹴て白いサラシがそこから覗く。
女の象徴たる膨らみは大きく、谷間から甘い香りを放っている。裾は酷く着崩れを起こし、白く長い足が露わになっていた。
着物を汚さぬよう裾を摘まんで地面を一蹴りして飛ぶ。
その表情は戯れる童と同じ。
不意に女の歩みが止まる。
真横に構える日本家屋の高く聳え立つ門前で、漆黒の外套を身に纏った男が女を待ち構えていた。
覆面の上からでは表情を伺い見る事は出来ない。
女は口を歪めて哂った。
「ふふ、珍しいお客さんです事……狗が何の用です」
男は、短く、抑揚のない声で一言。
「椿の魅姫とお見受けする。御命頂戴」
外套が音を立て捲れ上がった。腰に差した小太刀の柄を握ったまま、水溜りを蹴って、一直線に突進。
自分の命が狩られようとしているのに女は何を思ってか、手にした番傘を頭上へと放り投げた。
其れと同じく、黒尽くめの男は飛翔し、その刃を女へと突き立てた。 その距離僅か一寸程度。という所で、女が口を歪めほくそ笑んだ。
耳障りな音を立てながら赤黒い血が彼女に降り注いぐ。
堕ちて来る傘を片手で受け取り、内刀をして深い溜息を漏らした。
「ふう、狗の血で大事な御着物に汚れが付いてしまいました……お気に入りでしたのに……」
落胆も束の間、塀の上からぞろぞろと外套を身に纏った忍達が姿を現す。
「あら、あら、こんなに大勢の殿方に囲まれたのは初めて……ふふ、困ってしまいましたね」
言葉とは裏腹に、その貌は嬉々としていて、瞳の奥底から狂気を露わにさせている。鎌、鎖、刀、鉤爪。
多種多様な刃が彼女に襲い掛かる。
しかし、その全てが女に届く前に忍達の身体は、無残にも刻まれ、肉塊となり地面へと落ち。口の端を釣り上げ、声を上げて嗤う。
周りには殺気を放つ敵だけ。正に四面楚歌、それでも彼女は余裕の態度を崩さない。四方から鎖が女目掛けて放たれる。地面を一蹴にして高く飛翔し柱へと着地。忍達は一斉に上を向くがその姿はもう其処には無かった。
困惑する忍達。一人の頸が天高く舞った。その表情には驚愕も苦痛の色もない。斬られた事に気付きもしなかったのだ。
「キヒ」
短い哂い声の後、けたたましい流血の音と肉塊が辺りに散らばった。 命ある者は立ちすくみ、恐怖でたじろぐ。
女は虫でも見下ろすかの様な侮蔑に満ちた視線を浴びせた。
「あら、どうしたのですか? そんなに震えて……もっと私と遊んで下さいな」
言うのが早いか忍の視界を紅い番傘が覆う。一瞬の呆気。次の瞬間には眼球に刃が突き刺さる。
刀を抜くと嫌な音を立てて血が吹き荒れた。顔面に血飛沫を浴びて尚、狂気に満ちた貌で哂う。突如、女の左腕に鎖が巻き付けられた。
飛んできた方向に視線を向けると、ほくそ笑んで女とは思えぬ力で忍びを引き寄せる。眼前に迫った敵の眉間に刃を突き立てて、頭を串刺しにする。
「あっは! キヒッ! ヒヒヒ……」
腹を抱え、身を捩り哂う。狂った様に。
「ぐっ」
横に倒れていた忍が最後の力を振り絞り、女の足首に刀を突き刺した。
苦悶に歪む美しい顔。見下ろした後、忍の頸に刀を突き刺すと、虫の様にもがき、やがて力尽きる。
「大したものですね」
女の視界が急激に霞み、よろめく。其れを忍達は見逃さない。女の両腕に鎖鎌が巻きついてゆく。
三日月の刃が腕に突き刺さり血が滲む。仕込刀が女の手から落ちた。二人の忍が天高く飛翔し、襲い掛かる。絶対絶命。しかし、彼女の顔から笑みは消えない。
腕は拘束されても、まだ足がある。地面に落ちた刀をを蹴り上げて柄を口で噛む。頭を大きく振ると、着地する前に忍の身体は真っ二つに裂けた。鎖が音を立て垂れ落ちる。
激痛に歯を食い縛って耐えながら肩に刺さったままの鎌を乱雑に抜き取って放った。
「ふふ、自分の血を見るのは久々ね……腕も使い物にならなくなってしまったわ」
彼女の言う通り肩からは大量の血が流れ、血溜まりを作り出している。それでも、女は哂っていた。だが……。
「毒か……ああ、もう駄目ね」
そう言って力なく崩れ落ちた。感じるのは生暖かい感触。視界が紅く染まっていく。
「短い生涯でしたね……口惜しいのは、そう、恋も知らずに死ぬ事かしら」
女は己の死期がすぐ其処まで迫っていると悟っていた。自らの生涯を振り返り嘲笑した。ゆっくりと瞳を閉じる。最後に瞼の裏に浮かんだのは、母の笑顔であった。
◆◆◆
「――んっ」
水滴が女の頬を叩く。瞼を開くと、其処は冷たい岩盤の上だった。視界を覆うのは氷柱のように鋭く尖った岩。
漂う悪臭。
嘔吐物や糞塵が混ざった様な酷い臭いだった。
「此処……は……」
『ようやくお目覚めかい? ベッピンさん』
――声。
視線を動かすと、其処には小さな鬼が立っていた。赤黒い身体には、夥しい数の吹き出物が浮かんでいる。
酷くやせ細って、肋骨が浮き彫りになっているが、その腹部は水風船の様に大きく膨れ上がっていた。
頭には産毛と小さな角が生えており、腰には虎島模様のボロ布が巻かれている。
眼球は大きく、丸い金色をしていて、瞳孔は細く鋭い猫の様な瞳。
見る者を不快にさせる醜い小鬼は女の身体を舐めまわす様に見た後、黄ばんだ牙を覗かせて涎を垂らして、下卑た声で哂った。
『ヒヒヒ、アンタみたいな良い女が堕ちて来るのは久々だ……人の容を保ったままとは、余程業が深いと見える』
女は立ち上がり、鬼に向かって軽く頭を下げた。
「初めまして、小鬼さん。此処は一体どこですか」
彼女の問いに鬼は、こう応えた。
『地獄さ。アンタ、餓鬼道に堕ちたんだよ。自分の髪を見てみな』
言われて気付く。長く、黒かった髪は見事な紅色をしていた。
「まぁ、こんなに紅く……」
『へへ、今日からアンタも立派な鬼だよ? どうだい? 酷く飢えているだろう』
そう、飢え。先程から酷く飢えを感じている。喉は渇き切って今にも発狂してしまいそうになる程の飢えを。
「本当に酷く渇きますね」
『だろう? 実は俺もなんだ……さっきから喰いたくて喰いたくて仕方がないんだよ。其処で提案なんだが』
小鬼はにんまりと哂い。
『アンタを喰うってのはどうだい』
言うや否や人一人を丸呑み出来る程の大口を開けて襲い掛かる。が、空を斬る音と共に鬼の口は裂けて女の身体に赤黒い血がべっとりとこびり付いた。
鼻が曲がりそうなほどの腐臭が彼女の嗅覚を刺激する。口の中に広がる鉄の味に酷い不快感を覚え吐き捨てた。
「不味い」
岩山から小鬼が此方を覗き見ている。女に焦点を合わせ、一瞬の時を待つ。奇声と共に岩山から飛び出し鋭い爪を付き立てた。
女は、口の端を歪めほくそ笑む。番傘を広げ鬼の視界を塞ぐのとほぼ同時に頸が飛ぶ。
「フフフ、どうしましょう? これっぽちも満たされませんね」
女は、刀身に紅い舌を這わせた。身の毛もよだつ艶笑を浮かべながらゆっくりと歌い出す。
「鬼さん、此方。手の鳴る方へ」
暗闇の奥深くから金色の瞳が彼女を睨みつける。その数、ざっと百は下らないだろう。か細い腕には刃の欠けた日本刀が握られている。
『キエエエエッ』
耳を塞ぎたくなる様な甲高い奇声を発し、女に襲い掛かる。鬼の大群を目の前にしても、女は哂っていた。
「フフ。アッハ……アハハハハハハ! 鬼さん此方、手の鳴る方へ」
地獄という檻の中で、美しく妖しい鬼は己の業に蝕まれ、飢え狂う。満たされぬまま、彷徨い歩く。
◆◆◆
『はっ……はっ! ――チクショウ、チクショウめ! あり得ない、あり得ない! 堕ちたばかりの小娘が、あんな、あんな』
冷たい岩盤の上を汗を滲ませながら赤い鬼が走っている。その表情は恐怖で塗り潰され、絶望に満ち溢れていた。すぐ其処まで迫った死の恐怖。
息を切らしてただ必死に逃げた。
『此処は"餓鬼道"だぞ! なのに、なのに! どうして"阿修羅"みてぇに強え鬼が居やがるんだ』
足元が疎かであった為か、小石に躓いて勢い良く倒れ込んでしまう。痛みに顔を歪めている暇は無い。早く、早く、あの死臭漂う鬼から逃げなければ。
立ちあがろうとしたその時、鬼の頸筋に銀色の刃が添えられた。背筋に寒気が駆け抜ける。大量の唾を飲み込むと喉が大きく音を鳴らした。
「あら、あら、そんなに逃げる事ないじゃありませんか。私と一緒に遊びましょう」
声。
女の声。とても透き通っていて暗闇によく響いた。しかし、其れは余りに冷たい。
本能が告げる。この声の主は危険だと、一刻も早くこの場を離れなければ、死が訪れると鬼は悟って居た。
だが、動かない。まるで金縛りの様に、走り去るどころか指先一つ動かす事は出来なかった。
「良かった。まだ、一匹残っていたのね」
愉快そうに、新しい遊具を見つけたかの様な無邪気な声で女は言った。
「本当に、良かった。殺し過ぎて、誰も居なくなってしまったから」
小鬼が全身を震わせながら振り返る。
其処に立っていたのは、一人の女。背筋が凍る程の妖艶な笑みを浮かべ、侮蔑に塗れた視線を浴びせて来る。
怒りなど、到底沸いてこない。"恐い"という感情が止めどなく溢れる。
動け。と必死に震える身体に命令するが全く言う事を聞かない。
『助けて! 助けてくれ! もうアンタを喰おうなんて思ってない! 何でも、何でもするから助けてくれ』
顔を歪めて哀願する。紅い髪の女は切れ長の瞳を細めて哂った。
「ねえ、赤鬼さん。貴方に聞きたい事があるの。答えて頂けるかしら?」
『何でも教える! だから、だから! 命だけは』
女は、童の様に涙を流し命乞いをする小鬼の姿を酷く可笑しそうに見つめる。
「ふふ、良かった。ねえ、赤鬼さん。私(わたくし)喉が渇いて、渇いて仕方がないの……其れはもう狂ってしまいそうなくらいに……
けれど、もう此処には貴方と私しかいない……もっと沢山の糧が欲しいの。何処に行けば、貴方みたいな鬼が居るか、教えて下さらないかしら」
狂気を孕んだ瞳で真っすぐ見つめる。下顎を小刻みに震わせながら小鬼は答えた。
『そ、それなら、修羅の青鬼が居る場所へ行けばいい! この先にある赤い門を潜れば、別の"六道"へ行ける! 俺達、餓鬼よりももっともっと強い鬼が沢山いる! ア、アンタもきっと満足出来るさ』
「まぁ、それは本当?」
声を弾ませて女は笑う。まるで小さき童の様に愉しげにして。
『ほ、本当だとも! だから、いの――……』
言い終わる前に、鬼の頸が飛ぶ。断末魔を上げる事なく、天高く舞って、地面に叩きつけられ、ごろんと転がった。
頸から下の肢体は力なく垂れ下がって、膝を付き其処へと倒れ込んだ。肉塊か鮮血が溢れ、血溜まりを広げて行く。
「ふふ、あは、あっはははは!」
只一人の哂い声が灰色の檻に響き渡る。紅い髪をした美しい鬼は、ゆっくりと歩み出した。更なる糧を求めて……
空は分厚い灰色の雲に覆われて、雷の白光と豪音が雨音を掻き消す。
散歩にはむかない悪天候だというのに、一人の女が、真っ赤な番傘をさしてゆらゆらと歩いていた。
絹の様な黒く長い髪は、腰まで伸びていて、肌は雪の様に白く、瞳は黒耀石の如く、妖しく輝いている。
赤と黒の着物には黒椿の花弁が咲き誇り、胸元が大きく肌蹴て白いサラシがそこから覗く。
女の象徴たる膨らみは大きく、谷間から甘い香りを放っている。裾は酷く着崩れを起こし、白く長い足が露わになっていた。
着物を汚さぬよう裾を摘まんで地面を一蹴りして飛ぶ。
その表情は戯れる童と同じ。
不意に女の歩みが止まる。
真横に構える日本家屋の高く聳え立つ門前で、漆黒の外套を身に纏った男が女を待ち構えていた。
覆面の上からでは表情を伺い見る事は出来ない。
女は口を歪めて哂った。
「ふふ、珍しいお客さんです事……狗が何の用です」
男は、短く、抑揚のない声で一言。
「椿の魅姫とお見受けする。御命頂戴」
外套が音を立て捲れ上がった。腰に差した小太刀の柄を握ったまま、水溜りを蹴って、一直線に突進。
自分の命が狩られようとしているのに女は何を思ってか、手にした番傘を頭上へと放り投げた。
其れと同じく、黒尽くめの男は飛翔し、その刃を女へと突き立てた。 その距離僅か一寸程度。という所で、女が口を歪めほくそ笑んだ。
耳障りな音を立てながら赤黒い血が彼女に降り注いぐ。
堕ちて来る傘を片手で受け取り、内刀をして深い溜息を漏らした。
「ふう、狗の血で大事な御着物に汚れが付いてしまいました……お気に入りでしたのに……」
落胆も束の間、塀の上からぞろぞろと外套を身に纏った忍達が姿を現す。
「あら、あら、こんなに大勢の殿方に囲まれたのは初めて……ふふ、困ってしまいましたね」
言葉とは裏腹に、その貌は嬉々としていて、瞳の奥底から狂気を露わにさせている。鎌、鎖、刀、鉤爪。
多種多様な刃が彼女に襲い掛かる。
しかし、その全てが女に届く前に忍達の身体は、無残にも刻まれ、肉塊となり地面へと落ち。口の端を釣り上げ、声を上げて嗤う。
周りには殺気を放つ敵だけ。正に四面楚歌、それでも彼女は余裕の態度を崩さない。四方から鎖が女目掛けて放たれる。地面を一蹴にして高く飛翔し柱へと着地。忍達は一斉に上を向くがその姿はもう其処には無かった。
困惑する忍達。一人の頸が天高く舞った。その表情には驚愕も苦痛の色もない。斬られた事に気付きもしなかったのだ。
「キヒ」
短い哂い声の後、けたたましい流血の音と肉塊が辺りに散らばった。 命ある者は立ちすくみ、恐怖でたじろぐ。
女は虫でも見下ろすかの様な侮蔑に満ちた視線を浴びせた。
「あら、どうしたのですか? そんなに震えて……もっと私と遊んで下さいな」
言うのが早いか忍の視界を紅い番傘が覆う。一瞬の呆気。次の瞬間には眼球に刃が突き刺さる。
刀を抜くと嫌な音を立てて血が吹き荒れた。顔面に血飛沫を浴びて尚、狂気に満ちた貌で哂う。突如、女の左腕に鎖が巻き付けられた。
飛んできた方向に視線を向けると、ほくそ笑んで女とは思えぬ力で忍びを引き寄せる。眼前に迫った敵の眉間に刃を突き立てて、頭を串刺しにする。
「あっは! キヒッ! ヒヒヒ……」
腹を抱え、身を捩り哂う。狂った様に。
「ぐっ」
横に倒れていた忍が最後の力を振り絞り、女の足首に刀を突き刺した。
苦悶に歪む美しい顔。見下ろした後、忍の頸に刀を突き刺すと、虫の様にもがき、やがて力尽きる。
「大したものですね」
女の視界が急激に霞み、よろめく。其れを忍達は見逃さない。女の両腕に鎖鎌が巻きついてゆく。
三日月の刃が腕に突き刺さり血が滲む。仕込刀が女の手から落ちた。二人の忍が天高く飛翔し、襲い掛かる。絶対絶命。しかし、彼女の顔から笑みは消えない。
腕は拘束されても、まだ足がある。地面に落ちた刀をを蹴り上げて柄を口で噛む。頭を大きく振ると、着地する前に忍の身体は真っ二つに裂けた。鎖が音を立て垂れ落ちる。
激痛に歯を食い縛って耐えながら肩に刺さったままの鎌を乱雑に抜き取って放った。
「ふふ、自分の血を見るのは久々ね……腕も使い物にならなくなってしまったわ」
彼女の言う通り肩からは大量の血が流れ、血溜まりを作り出している。それでも、女は哂っていた。だが……。
「毒か……ああ、もう駄目ね」
そう言って力なく崩れ落ちた。感じるのは生暖かい感触。視界が紅く染まっていく。
「短い生涯でしたね……口惜しいのは、そう、恋も知らずに死ぬ事かしら」
女は己の死期がすぐ其処まで迫っていると悟っていた。自らの生涯を振り返り嘲笑した。ゆっくりと瞳を閉じる。最後に瞼の裏に浮かんだのは、母の笑顔であった。
◆◆◆
「――んっ」
水滴が女の頬を叩く。瞼を開くと、其処は冷たい岩盤の上だった。視界を覆うのは氷柱のように鋭く尖った岩。
漂う悪臭。
嘔吐物や糞塵が混ざった様な酷い臭いだった。
「此処……は……」
『ようやくお目覚めかい? ベッピンさん』
――声。
視線を動かすと、其処には小さな鬼が立っていた。赤黒い身体には、夥しい数の吹き出物が浮かんでいる。
酷くやせ細って、肋骨が浮き彫りになっているが、その腹部は水風船の様に大きく膨れ上がっていた。
頭には産毛と小さな角が生えており、腰には虎島模様のボロ布が巻かれている。
眼球は大きく、丸い金色をしていて、瞳孔は細く鋭い猫の様な瞳。
見る者を不快にさせる醜い小鬼は女の身体を舐めまわす様に見た後、黄ばんだ牙を覗かせて涎を垂らして、下卑た声で哂った。
『ヒヒヒ、アンタみたいな良い女が堕ちて来るのは久々だ……人の容を保ったままとは、余程業が深いと見える』
女は立ち上がり、鬼に向かって軽く頭を下げた。
「初めまして、小鬼さん。此処は一体どこですか」
彼女の問いに鬼は、こう応えた。
『地獄さ。アンタ、餓鬼道に堕ちたんだよ。自分の髪を見てみな』
言われて気付く。長く、黒かった髪は見事な紅色をしていた。
「まぁ、こんなに紅く……」
『へへ、今日からアンタも立派な鬼だよ? どうだい? 酷く飢えているだろう』
そう、飢え。先程から酷く飢えを感じている。喉は渇き切って今にも発狂してしまいそうになる程の飢えを。
「本当に酷く渇きますね」
『だろう? 実は俺もなんだ……さっきから喰いたくて喰いたくて仕方がないんだよ。其処で提案なんだが』
小鬼はにんまりと哂い。
『アンタを喰うってのはどうだい』
言うや否や人一人を丸呑み出来る程の大口を開けて襲い掛かる。が、空を斬る音と共に鬼の口は裂けて女の身体に赤黒い血がべっとりとこびり付いた。
鼻が曲がりそうなほどの腐臭が彼女の嗅覚を刺激する。口の中に広がる鉄の味に酷い不快感を覚え吐き捨てた。
「不味い」
岩山から小鬼が此方を覗き見ている。女に焦点を合わせ、一瞬の時を待つ。奇声と共に岩山から飛び出し鋭い爪を付き立てた。
女は、口の端を歪めほくそ笑む。番傘を広げ鬼の視界を塞ぐのとほぼ同時に頸が飛ぶ。
「フフフ、どうしましょう? これっぽちも満たされませんね」
女は、刀身に紅い舌を這わせた。身の毛もよだつ艶笑を浮かべながらゆっくりと歌い出す。
「鬼さん、此方。手の鳴る方へ」
暗闇の奥深くから金色の瞳が彼女を睨みつける。その数、ざっと百は下らないだろう。か細い腕には刃の欠けた日本刀が握られている。
『キエエエエッ』
耳を塞ぎたくなる様な甲高い奇声を発し、女に襲い掛かる。鬼の大群を目の前にしても、女は哂っていた。
「フフ。アッハ……アハハハハハハ! 鬼さん此方、手の鳴る方へ」
地獄という檻の中で、美しく妖しい鬼は己の業に蝕まれ、飢え狂う。満たされぬまま、彷徨い歩く。
◆◆◆
『はっ……はっ! ――チクショウ、チクショウめ! あり得ない、あり得ない! 堕ちたばかりの小娘が、あんな、あんな』
冷たい岩盤の上を汗を滲ませながら赤い鬼が走っている。その表情は恐怖で塗り潰され、絶望に満ち溢れていた。すぐ其処まで迫った死の恐怖。
息を切らしてただ必死に逃げた。
『此処は"餓鬼道"だぞ! なのに、なのに! どうして"阿修羅"みてぇに強え鬼が居やがるんだ』
足元が疎かであった為か、小石に躓いて勢い良く倒れ込んでしまう。痛みに顔を歪めている暇は無い。早く、早く、あの死臭漂う鬼から逃げなければ。
立ちあがろうとしたその時、鬼の頸筋に銀色の刃が添えられた。背筋に寒気が駆け抜ける。大量の唾を飲み込むと喉が大きく音を鳴らした。
「あら、あら、そんなに逃げる事ないじゃありませんか。私と一緒に遊びましょう」
声。
女の声。とても透き通っていて暗闇によく響いた。しかし、其れは余りに冷たい。
本能が告げる。この声の主は危険だと、一刻も早くこの場を離れなければ、死が訪れると鬼は悟って居た。
だが、動かない。まるで金縛りの様に、走り去るどころか指先一つ動かす事は出来なかった。
「良かった。まだ、一匹残っていたのね」
愉快そうに、新しい遊具を見つけたかの様な無邪気な声で女は言った。
「本当に、良かった。殺し過ぎて、誰も居なくなってしまったから」
小鬼が全身を震わせながら振り返る。
其処に立っていたのは、一人の女。背筋が凍る程の妖艶な笑みを浮かべ、侮蔑に塗れた視線を浴びせて来る。
怒りなど、到底沸いてこない。"恐い"という感情が止めどなく溢れる。
動け。と必死に震える身体に命令するが全く言う事を聞かない。
『助けて! 助けてくれ! もうアンタを喰おうなんて思ってない! 何でも、何でもするから助けてくれ』
顔を歪めて哀願する。紅い髪の女は切れ長の瞳を細めて哂った。
「ねえ、赤鬼さん。貴方に聞きたい事があるの。答えて頂けるかしら?」
『何でも教える! だから、だから! 命だけは』
女は、童の様に涙を流し命乞いをする小鬼の姿を酷く可笑しそうに見つめる。
「ふふ、良かった。ねえ、赤鬼さん。私(わたくし)喉が渇いて、渇いて仕方がないの……其れはもう狂ってしまいそうなくらいに……
けれど、もう此処には貴方と私しかいない……もっと沢山の糧が欲しいの。何処に行けば、貴方みたいな鬼が居るか、教えて下さらないかしら」
狂気を孕んだ瞳で真っすぐ見つめる。下顎を小刻みに震わせながら小鬼は答えた。
『そ、それなら、修羅の青鬼が居る場所へ行けばいい! この先にある赤い門を潜れば、別の"六道"へ行ける! 俺達、餓鬼よりももっともっと強い鬼が沢山いる! ア、アンタもきっと満足出来るさ』
「まぁ、それは本当?」
声を弾ませて女は笑う。まるで小さき童の様に愉しげにして。
『ほ、本当だとも! だから、いの――……』
言い終わる前に、鬼の頸が飛ぶ。断末魔を上げる事なく、天高く舞って、地面に叩きつけられ、ごろんと転がった。
頸から下の肢体は力なく垂れ下がって、膝を付き其処へと倒れ込んだ。肉塊か鮮血が溢れ、血溜まりを広げて行く。
「ふふ、あは、あっはははは!」
只一人の哂い声が灰色の檻に響き渡る。紅い髪をした美しい鬼は、ゆっくりと歩み出した。更なる糧を求めて……