鬼狩り
“畜生道”——其処は人から獣へと堕ちた者達が支配する世界。
岩盤の下からは紫色の光が差して、見渡せば、其処彼処に散らばった獣の残骸が転がっている。
此処もまた腐臭が漂う地獄の一角。そんな場所には不釣り合いな、美しい女が一人、ゆっくりとした足取りで歩みを進めている。
よおく見ればその女、全身に夥しい血がこべり付いているではないか。
顔の半分は血にまみれ、肢体も其れに同じ。さぞ美しかったであろう着物は見るも無残にぼろ布と化している。
一際眼を引く紅く長い髪も血を浴びて、黒く変色してしまっていた。 金色の瞳は濁り、酷く冷たい。それにしても解せないのは、これだけ血に塗れても平気な顔をしている事だ。足を引きずるでも無く、苦痛に悶え苦しんでいる訳でもない。その表情は、恍惚としていて何処か妖艶であった。
そう、全身に纏った血は全て彼女が浴びた返り血だった。一体、どれ程の命を狩ればこんな姿になるのだろうか。正に修羅の如き強さ。女の周りには何人も寄りつきはしない。
唐突に、女の歩みが止まる。腰を屈めて口を開いた。
「……可哀そうに」
其れは一匹の子猫。銀色の毛並みに、紅い虎縞模様が浮かんだ小さな小さな猫であった。片耳は失われ、右前足には何かに喰い千切られた痕が残っていた。血に塗れた掌でそっと頭を撫でてやる。すると、残った耳が微かに動いた。
「まぁ、まだ生きているのね……ねえ、小さな猫さん。私、貴方みたいな綺麗で可愛い子は大好きよ。私と一緒に貴方を苛めた悪い悪い鬼を退治しに行きましょう」
猫は、必死に顔を上げて女の指先を舌で舐めた。もう、鳴き声を発する事も困難なのだろう。
女は満足そうに微笑んで、仕込刀を抜き、あろうことか自分の指先を刃に押し当てた。
刀身から紅い滴が落ちる。其れを猫の口に垂らしてやった。すると、淡い光が子猫を包み込んゆく。
奇想天外、猫を瀕死に追い込んだ傷が癒えて、足も耳も元に戻ってしまった。
瞼が開く。大きく美しい銀色の瞳。きっと、一番驚いて居るのは、他ならぬ猫であろう。
立ちあがって、女にすり寄り掌を舐めている。彼女は瞳を細めて微笑んだ。下顎を撫でてやると、気持ちよさそうにして、小さく愛らしい鳴き声が漏れる。
「可愛い子。貴方、お名前は?」
子猫は上目遣いで女を見つめている。
「そう、名前がないのね……そうだ、私が貴方に名前を付けてあげるわ。そうね"雪那"(せつな)というのはどうかしら? 貴方にぴったりよ」
まるで、親が子に名を贈る様に女は子猫を雪那と名付けた。
◆◆◆
『貴様、其処で何をしている』
◆◆◆
声。背後から耳に届く。
大凡、人ではない事は姿を見ずともそう直感した。殺気と共に惜しげもなく注がれる敵意。
先程、雪那と名付けられた猫又の子猫は怯えきって身体を震わせていた。女の顔は、一転して目つきが鋭くなり、見るからに不機嫌そうである。
「無粋な輩ですこと……せっかくこんなに可愛い子とお話して居たのに」
立ちあがって振り返る。其処に立っていたのは見上げるほどの巨人。
いや、人ではない化け物だった。漆黒の鎧を身に纏い、その手には巨大な斧を持ち、腰にはこれまた巨大な日本刀を帯びている。
その頭部は、獅子の其れだった。百獣の王に相応しい鬣に爛々とした獣の瞳。その覇気は見る者を圧倒する。
『もう一度、問おう。貴様、其処で何をしている』
獣人の問いに背筋が震え上がるほどの艶笑を浮かべてぽつりと一言。
「……——鬼退治」
鋭利な風が獅子の鬣を靡かせた。視界に紅い液体が映る。
其れが己の鮮血であることを理解するのに数秒かかった。
恐る恐る視線を動かすと、右肩は見事に消し飛んでいるではないか。
とめどなく溢れる鮮血は耳鳴りのような不快な音を鳴らす。
その光景を目の当たりにし、初めて痛みを認識した。
咆哮。そう、咆哮だ。岩盤を揺さぶるほどの野太い叫び。
残った片腕で傷口を抑えてもまるで収まる気配はない。
巨木の幹ほどに太い腕は、重力に逆らうことなく落下して地響きを上げ、砂塵が舞う。
獣人は痛みを怒りに変えて瞳孔を細め残った片腕で巨大な刃を高く振り上げて叩き付けた。
激しい縦揺れのあと、砂煙は徐々に薄らいでゆく。
『はぁ……はぁ』
この様子なら女も灰燼と化しているだろう。
岩盤にめり込んだ刀を抜き、ざまあみろと獣の貌が歪む。
しかし、そう思ったのも束の間、獅子の頸から滝の様に紅い血が滴り落ちた。
そのまま巨大な頭部が転げ落ちた。
ふわりと地面に降り立つ女。胸元から雪那が顔を出す。
「良かった。さぁ、雪那。鬼退治に行きましょう」
視線を落とし、優しく微笑んで修羅道を目指さんと歩み出した。しかし……。
「まぁ、困りました。雪那、そう簡単には通してくれないみたいだわ」
暗闇に浮かぶ幾つもの赤い瞳。
その全てが敵意を剥き出しにして女を射抜く。
女は、腰を屈めて刀の柄に握り締めた。
獣達は爪を立て、女の首を刈り取るその一瞬に備えた。
咆哮と共に一斉に飛びかかって、その牙で、その爪で女を引き裂こうと襲いかかった。
「アッハ」
実に愉快そうに女は嗤い鞘から勢い良く刀を引き抜く。目には見えない刃が獣達を一瞬で肉塊へと変えた。
怯み、後退してゆく獣達。女は身の毛もよだつ笑みを浮かべながら口を開く。
「貴方たちも此処に退屈でしょう? 私が遊び相手になってさしあげるわ」
言った瞬間、獣たちの視界から女が消えた。
狼の姿をした獣が甲高い鳴き声を発し倒れ込んだ。足は、見事骨まで断ち切られている。
女の姿は見えない。狂気に酔う笑い声だけが獣たちの耳に残った。
肉塊と血溜まりの中心で紅い雨に打たれながら女は笑っていた。
番傘に刀を納めるとチンっと小さな音が木霊した。
「あら?」
四方から聞こえてくる足音に女の長い耳が上下した。
『動くな!』
其れは、警告。
指先一つでも動かせば、彼女を取り囲む無数の刃が白い肌に突き刺さるだろう。漆黒の鎧を身に纏った獣人兵。その全てが女に敵意を向けていた。瞳は赤く充血し、金色の眼球は瞳孔が閉じて、鋭く女を睨みつけている。
「まだ、こんなにも鬼が居たのね」
己の身体を両腕で抱きしめながら喜びに打ち震える女の姿に獣兵たちは生唾を飲み込んだ。
数では此方が圧倒的に有利なはず。その気になればいつでも頸を刎ねる事は造作もないはずなのに、何故自分たちは怯えているのだろうか。
痺れを切らした虎の頭をした獣兵は、身の丈ほどある槍を頭上で回転させた後、獣の脚力をもって一蹴りで距離を縮めて来た。
一撃必殺の突き。女は避ける事も飛翔する事もなく、鞘に収めた刀を勢いよく引き抜いた。
すると、鼻先まで迫っていた槍が破裂音を立て粉微塵に砕けた。
驚愕に染まる虎の顔。瞬きする間に虎の頸は刎ねられ、岩盤に赤黒い雨が降り注ぐ。
牛頭の獣兵は雄叫びを上げて日本刀を振り上げ襲いかかった。
刃が交じれて、火花を散らし、牛頭の身の丈程ある太刀は、真っ二つに折れた。丸太のように太い腕は、肘上から刎ね飛び、鮮血を撒き散らす。
「あはははははははっ! ヒッ! キヒッ」
無慈悲に、残酷に、辛辣に冷徹に、瞳に映る命を狩って行く。その業は深く、決して満たされぬ飢えとなる。
その身に幾百、幾千もの血を浴びて一匹の赤鬼は踊り狂った。
『ばっ……化け物め!』
獣兵たちは恐怖した。此処は業深き者が堕ちる場所。獣の鬼達は、嘗て これほどまでに罪深き鬼を見た事は無かった。地獄へ堕ちて尚、己の赴くままにその刃で斬って、斬って、斬り捨てる。悦楽に溺れ、快感に酔い痴れる鬼。自分達とは"格"が違うのだと、その惨劇を目の当たりにして実感した。
「あぁ、あぁ、なんて美しいのかしら……肉を断つ感触。耳に残る血潮が吹き荒れる音、悶え苦しむその姿、素敵よ。とっても素敵だわ。さぁ、もっと私に見せて下さいな」
◆◆◆
「餓鬼界と畜生界が殲滅されただと?」
赤。壁一面が赤色で統一された部屋で不機嫌そうに紫煙を燻らせる男が一人。
真新しい畳の香りが心を落ち着かせるそんな一室。
木製の卓上には書類が文字通り山積みになっている。
丸窓の障子には桜の木が映し出されて居た。
胡坐を掻き不遜な態度で片肘を立てる男。黒い着流しには赤く燃え滾った炎が刺繍され、藍色の羽織には一匹の黒豹が大きく描かれていた。
黒く美しい髪は、男の左目を覆い隠す。その眼は深い赤色をしていた。
髪や耳には気品漂う装飾品を身に付け、女が見れば忽ちその色香に酔い痴れるであろう程の伊達男だ。
「うん、そうだよ。零(ゼロ)義兄さん。ここ四百年くらいで、"餓鬼"、"畜生"の鬼が斬殺されまくってるんだってさ。人の"容(かたち)"をした鬼にね……肢体や頸はバラバラ、そりゃもう阿鼻叫喚の嵐って話だよ? キシシ」
無邪気な表情を浮かべている少年は零と呼ばれた男に対面して正座しながら、湯呑みを傾ける。
銀髪に彩度の高い青い瞳。
額には、蒼角が一つ。天に向かって伸びている。
白を基調された着物の襟元や袖口には青い炎が燃え盛っている。漆黒の羽織の背には"修羅"の文字が刻まれていた。
「てめぇ、何呑気な事言ってやがる。クソったれが……餓鬼っていやぁ"三悪趣"じゃねえかよ」
零は拳を硬く握り、卓上へと振り下ろした。
横に置かれた湯呑みは倒れ、遠慮なく茶をぶちまける。
「まっ! そんなにカリカリしないでよ。義兄さん。多分、僕の所まで来ると思うからその時捕まえればいいでしょ? ふふん、楽しみだなぁ、どんな奴だろ? こんなにわくわくするのは"天釈帝"に喧嘩売る以来だね」
少年は、童の様な無垢な笑みを浮かべて想いを馳せていた。
零は紫煙をゆっくりと吐いて少年に忠告した。
「羅毘。お前、遊ぶんじゃねえぞ……最弱とは言え"三悪趣"の鬼だ。しかも、人の容を保ったままと来てやがる。是が非でもてめぇで片付けろ。"此処"へは通すなよ。厄介な事になるからな」
少年はにんまりと口の端を釣り上げてこう言った。
「僕を誰だと思ってるのさ、義兄さん。"闘神阿修羅"だよ? 餓鬼程度に手負うヘマはしないさ」
「…………だといいがな」
岩盤の下からは紫色の光が差して、見渡せば、其処彼処に散らばった獣の残骸が転がっている。
此処もまた腐臭が漂う地獄の一角。そんな場所には不釣り合いな、美しい女が一人、ゆっくりとした足取りで歩みを進めている。
よおく見ればその女、全身に夥しい血がこべり付いているではないか。
顔の半分は血にまみれ、肢体も其れに同じ。さぞ美しかったであろう着物は見るも無残にぼろ布と化している。
一際眼を引く紅く長い髪も血を浴びて、黒く変色してしまっていた。 金色の瞳は濁り、酷く冷たい。それにしても解せないのは、これだけ血に塗れても平気な顔をしている事だ。足を引きずるでも無く、苦痛に悶え苦しんでいる訳でもない。その表情は、恍惚としていて何処か妖艶であった。
そう、全身に纏った血は全て彼女が浴びた返り血だった。一体、どれ程の命を狩ればこんな姿になるのだろうか。正に修羅の如き強さ。女の周りには何人も寄りつきはしない。
唐突に、女の歩みが止まる。腰を屈めて口を開いた。
「……可哀そうに」
其れは一匹の子猫。銀色の毛並みに、紅い虎縞模様が浮かんだ小さな小さな猫であった。片耳は失われ、右前足には何かに喰い千切られた痕が残っていた。血に塗れた掌でそっと頭を撫でてやる。すると、残った耳が微かに動いた。
「まぁ、まだ生きているのね……ねえ、小さな猫さん。私、貴方みたいな綺麗で可愛い子は大好きよ。私と一緒に貴方を苛めた悪い悪い鬼を退治しに行きましょう」
猫は、必死に顔を上げて女の指先を舌で舐めた。もう、鳴き声を発する事も困難なのだろう。
女は満足そうに微笑んで、仕込刀を抜き、あろうことか自分の指先を刃に押し当てた。
刀身から紅い滴が落ちる。其れを猫の口に垂らしてやった。すると、淡い光が子猫を包み込んゆく。
奇想天外、猫を瀕死に追い込んだ傷が癒えて、足も耳も元に戻ってしまった。
瞼が開く。大きく美しい銀色の瞳。きっと、一番驚いて居るのは、他ならぬ猫であろう。
立ちあがって、女にすり寄り掌を舐めている。彼女は瞳を細めて微笑んだ。下顎を撫でてやると、気持ちよさそうにして、小さく愛らしい鳴き声が漏れる。
「可愛い子。貴方、お名前は?」
子猫は上目遣いで女を見つめている。
「そう、名前がないのね……そうだ、私が貴方に名前を付けてあげるわ。そうね"雪那"(せつな)というのはどうかしら? 貴方にぴったりよ」
まるで、親が子に名を贈る様に女は子猫を雪那と名付けた。
◆◆◆
『貴様、其処で何をしている』
◆◆◆
声。背後から耳に届く。
大凡、人ではない事は姿を見ずともそう直感した。殺気と共に惜しげもなく注がれる敵意。
先程、雪那と名付けられた猫又の子猫は怯えきって身体を震わせていた。女の顔は、一転して目つきが鋭くなり、見るからに不機嫌そうである。
「無粋な輩ですこと……せっかくこんなに可愛い子とお話して居たのに」
立ちあがって振り返る。其処に立っていたのは見上げるほどの巨人。
いや、人ではない化け物だった。漆黒の鎧を身に纏い、その手には巨大な斧を持ち、腰にはこれまた巨大な日本刀を帯びている。
その頭部は、獅子の其れだった。百獣の王に相応しい鬣に爛々とした獣の瞳。その覇気は見る者を圧倒する。
『もう一度、問おう。貴様、其処で何をしている』
獣人の問いに背筋が震え上がるほどの艶笑を浮かべてぽつりと一言。
「……——鬼退治」
鋭利な風が獅子の鬣を靡かせた。視界に紅い液体が映る。
其れが己の鮮血であることを理解するのに数秒かかった。
恐る恐る視線を動かすと、右肩は見事に消し飛んでいるではないか。
とめどなく溢れる鮮血は耳鳴りのような不快な音を鳴らす。
その光景を目の当たりにし、初めて痛みを認識した。
咆哮。そう、咆哮だ。岩盤を揺さぶるほどの野太い叫び。
残った片腕で傷口を抑えてもまるで収まる気配はない。
巨木の幹ほどに太い腕は、重力に逆らうことなく落下して地響きを上げ、砂塵が舞う。
獣人は痛みを怒りに変えて瞳孔を細め残った片腕で巨大な刃を高く振り上げて叩き付けた。
激しい縦揺れのあと、砂煙は徐々に薄らいでゆく。
『はぁ……はぁ』
この様子なら女も灰燼と化しているだろう。
岩盤にめり込んだ刀を抜き、ざまあみろと獣の貌が歪む。
しかし、そう思ったのも束の間、獅子の頸から滝の様に紅い血が滴り落ちた。
そのまま巨大な頭部が転げ落ちた。
ふわりと地面に降り立つ女。胸元から雪那が顔を出す。
「良かった。さぁ、雪那。鬼退治に行きましょう」
視線を落とし、優しく微笑んで修羅道を目指さんと歩み出した。しかし……。
「まぁ、困りました。雪那、そう簡単には通してくれないみたいだわ」
暗闇に浮かぶ幾つもの赤い瞳。
その全てが敵意を剥き出しにして女を射抜く。
女は、腰を屈めて刀の柄に握り締めた。
獣達は爪を立て、女の首を刈り取るその一瞬に備えた。
咆哮と共に一斉に飛びかかって、その牙で、その爪で女を引き裂こうと襲いかかった。
「アッハ」
実に愉快そうに女は嗤い鞘から勢い良く刀を引き抜く。目には見えない刃が獣達を一瞬で肉塊へと変えた。
怯み、後退してゆく獣達。女は身の毛もよだつ笑みを浮かべながら口を開く。
「貴方たちも此処に退屈でしょう? 私が遊び相手になってさしあげるわ」
言った瞬間、獣たちの視界から女が消えた。
狼の姿をした獣が甲高い鳴き声を発し倒れ込んだ。足は、見事骨まで断ち切られている。
女の姿は見えない。狂気に酔う笑い声だけが獣たちの耳に残った。
肉塊と血溜まりの中心で紅い雨に打たれながら女は笑っていた。
番傘に刀を納めるとチンっと小さな音が木霊した。
「あら?」
四方から聞こえてくる足音に女の長い耳が上下した。
『動くな!』
其れは、警告。
指先一つでも動かせば、彼女を取り囲む無数の刃が白い肌に突き刺さるだろう。漆黒の鎧を身に纏った獣人兵。その全てが女に敵意を向けていた。瞳は赤く充血し、金色の眼球は瞳孔が閉じて、鋭く女を睨みつけている。
「まだ、こんなにも鬼が居たのね」
己の身体を両腕で抱きしめながら喜びに打ち震える女の姿に獣兵たちは生唾を飲み込んだ。
数では此方が圧倒的に有利なはず。その気になればいつでも頸を刎ねる事は造作もないはずなのに、何故自分たちは怯えているのだろうか。
痺れを切らした虎の頭をした獣兵は、身の丈ほどある槍を頭上で回転させた後、獣の脚力をもって一蹴りで距離を縮めて来た。
一撃必殺の突き。女は避ける事も飛翔する事もなく、鞘に収めた刀を勢いよく引き抜いた。
すると、鼻先まで迫っていた槍が破裂音を立て粉微塵に砕けた。
驚愕に染まる虎の顔。瞬きする間に虎の頸は刎ねられ、岩盤に赤黒い雨が降り注ぐ。
牛頭の獣兵は雄叫びを上げて日本刀を振り上げ襲いかかった。
刃が交じれて、火花を散らし、牛頭の身の丈程ある太刀は、真っ二つに折れた。丸太のように太い腕は、肘上から刎ね飛び、鮮血を撒き散らす。
「あはははははははっ! ヒッ! キヒッ」
無慈悲に、残酷に、辛辣に冷徹に、瞳に映る命を狩って行く。その業は深く、決して満たされぬ飢えとなる。
その身に幾百、幾千もの血を浴びて一匹の赤鬼は踊り狂った。
『ばっ……化け物め!』
獣兵たちは恐怖した。此処は業深き者が堕ちる場所。獣の鬼達は、嘗て これほどまでに罪深き鬼を見た事は無かった。地獄へ堕ちて尚、己の赴くままにその刃で斬って、斬って、斬り捨てる。悦楽に溺れ、快感に酔い痴れる鬼。自分達とは"格"が違うのだと、その惨劇を目の当たりにして実感した。
「あぁ、あぁ、なんて美しいのかしら……肉を断つ感触。耳に残る血潮が吹き荒れる音、悶え苦しむその姿、素敵よ。とっても素敵だわ。さぁ、もっと私に見せて下さいな」
◆◆◆
「餓鬼界と畜生界が殲滅されただと?」
赤。壁一面が赤色で統一された部屋で不機嫌そうに紫煙を燻らせる男が一人。
真新しい畳の香りが心を落ち着かせるそんな一室。
木製の卓上には書類が文字通り山積みになっている。
丸窓の障子には桜の木が映し出されて居た。
胡坐を掻き不遜な態度で片肘を立てる男。黒い着流しには赤く燃え滾った炎が刺繍され、藍色の羽織には一匹の黒豹が大きく描かれていた。
黒く美しい髪は、男の左目を覆い隠す。その眼は深い赤色をしていた。
髪や耳には気品漂う装飾品を身に付け、女が見れば忽ちその色香に酔い痴れるであろう程の伊達男だ。
「うん、そうだよ。零(ゼロ)義兄さん。ここ四百年くらいで、"餓鬼"、"畜生"の鬼が斬殺されまくってるんだってさ。人の"容(かたち)"をした鬼にね……肢体や頸はバラバラ、そりゃもう阿鼻叫喚の嵐って話だよ? キシシ」
無邪気な表情を浮かべている少年は零と呼ばれた男に対面して正座しながら、湯呑みを傾ける。
銀髪に彩度の高い青い瞳。
額には、蒼角が一つ。天に向かって伸びている。
白を基調された着物の襟元や袖口には青い炎が燃え盛っている。漆黒の羽織の背には"修羅"の文字が刻まれていた。
「てめぇ、何呑気な事言ってやがる。クソったれが……餓鬼っていやぁ"三悪趣"じゃねえかよ」
零は拳を硬く握り、卓上へと振り下ろした。
横に置かれた湯呑みは倒れ、遠慮なく茶をぶちまける。
「まっ! そんなにカリカリしないでよ。義兄さん。多分、僕の所まで来ると思うからその時捕まえればいいでしょ? ふふん、楽しみだなぁ、どんな奴だろ? こんなにわくわくするのは"天釈帝"に喧嘩売る以来だね」
少年は、童の様な無垢な笑みを浮かべて想いを馳せていた。
零は紫煙をゆっくりと吐いて少年に忠告した。
「羅毘。お前、遊ぶんじゃねえぞ……最弱とは言え"三悪趣"の鬼だ。しかも、人の容を保ったままと来てやがる。是が非でもてめぇで片付けろ。"此処"へは通すなよ。厄介な事になるからな」
少年はにんまりと口の端を釣り上げてこう言った。
「僕を誰だと思ってるのさ、義兄さん。"闘神阿修羅"だよ? 餓鬼程度に手負うヘマはしないさ」
「…………だといいがな」